2015年8月31日月曜日

自分はやっぱり恵まれている

最近は朝起きてすぐに散歩に行っているのだけど、今朝は小雨模様だったので先に朝食を済ませた。


散歩はいいかな、とも思っていたけど、雨が止んだのでいつものコースを。


ですごかったのは、出る時間が1時間くらい遅くなると、近くの道路は通勤の車であふれているということ。


この時間はいつも掃除をしているから気付かなかったんですが、改めて、通勤も必要とせず、満員電車で神経をすり減らすこともなく仕事をして毎日を過ごせる自分の環境は、有難いものだな、と気づきました。

最近は身体の調子が良くないですが、今日も胸を借りて生きていきます。


2015年8月30日日曜日

ドラえもん症候群

日曜の夜に、翌日からの仕事のことを考えて憂鬱になるのがサザエさん症候群なら、金曜の夕方に仕事を終えて


「オレの週末、キターー!!!」


ってめちゃくちゃテンションが上がるの、ドラえもん症候群って名づけてもいいと思うんですよ。(もう名づけられている?)


小学生の頃、金曜夜にドラえもんが放送されるのが楽しみで楽しみで仕方がなかった。


というか、今もドラえもんは金曜の夜に放送されているのか…?



2015年8月29日土曜日

JRのゆくえ

今後、何十年以内かは分からないけれど、JR(特に本州三社)は「新幹線会社」に変わっていくと思っている。


日本の相当のエリアをカバーするJRにとって、正直なところ、採算の合わない地方交通線は「お荷物」だろうし、もっと収益性の高い路線の活用に力を注いでいくと思う。


実際、長野新幹線(高崎~長野)が開通する時から法律で、並行在来線は第三セクターに移行することができる(だったかな?)ようになって、しなの鉄道や青い森鉄道、いわて銀河鉄道などが生まれた。

これは実際的に、「新幹線の開通によって特急も通らなくなる並行在来線は採算に合わないから、JRは管轄しません」と言っているようなものだし、これからも(どれだけ新幹線ができるのかは分からないが)そういうケースは増えていくと思う。


それに、東海道新幹線でボロ勝ちしているJR東海ですら、土砂災害で不通になった名松線の一部区間の復旧は渋りがちだったので、以下にJRが、採算の合わない路線の運用に気を揉んでいるかも分かる。


来年開通する北海道新幹線でも、おそらく並行在来線は第三セクターに移行されるだろうけど、これを運用しなければならない地方自治体もさぞかし大変だろう。


今後の日本のJRの地図は、永久歯がボロボロ抜けたようなものになっていくだろう。



そういう意味では、九州新幹線全通の際に、博多~新八代のいずれの区間も第三セクターに切り離さずにJRの管轄に残し、かつ朝夕だけではあるけれど、特急有明を残したJR九州の方針は評価できると思う。これはおそらく、保有している不動産の数や価値、そして九州という程よい規模感という背景があるのだろう。(そういうのもあって、自分が唯一応援しているJRが、JR九州。)



それにしても、「先進国/成熟国」になった現在でも未だに、ハコモノを作ってスピードアップにしか頭を使えないこの国のおエライ方々の頭は、どこまで行っても発展途上だな、なんてことを10年前から思っていますが。




2015年8月28日金曜日

テレビゲームよりも有害な物

ここ数年、めっきりテレビを見なくなった。


時々NHKのインタビュー番組やスーパープレゼンテーション、語学番組は録画して見るけれど、バラエティ番組はもう全然見ていない。



なんといっても、内容が下らない。


よくこんなもの、数時間もかけて見ていられるな、と吐き捨てたくなるほど、実に下らない。


出てくるのは毎回同じメンツだし、テレビによっては裏方が出演者をイジメているような番組もあって(どことは言わないけど)、まあ、くだらない世の中をそのまま反映しているというか、縮図になっている、というか、とにかく、よくこんなくだらないことをしてお金が動いているな、と、呆れ返るようにしかならなくなった。


もちろん、全ての番組がそういう状態になっているわけではない。


ただ、おしなべて、テレビを見るのに時間を使うのはもったいない、と思うようになってしまった。



自分は結構、周りの環境に影響を受ける人間だと分かっているので、意図的にそういう「悪い影響」を及ぼしそうなものとは、関わりを経っている。


言葉づかいがすごく汚い芸人もいれば、平気で他人を叩くような人もいて(この辺りは、人によって許容度も異なると思うが、自分は無理)、普段学校とか職場でもこんなことってあるのに、そんな追体験をテレビを見てまでする人たちって、何を考えているのかな、とまで思うことすらある。


(あと、ドラマも元から全く見ないけど、これは単純に、ドラマ見ているより生の人生の方が楽しいから、というのが理由である。)



ところで、一般的にテレビゲームはしないほうがいい、と言われている。

勉強をする時間が取られるし、いつまでもしてしまうし、目が悪くなるし(これには個人差があるのだろうけど)…、といった理由が、多くの家庭で使われていると思う。

ただ、最近思うのは、テレビゲームってテレビを見るより実は有益なんじゃないか、ということだ。

これも個人差があるからなんともいけないけれど、例えばRPGだと、物事をクリアしていく達成感が味わえるし、瞬時の判断力も必要とされるし、何よりも「時間を忘れて没頭できる」というのが、かけがえのない財産になると思うのだ。


勉強よりゲームの方が楽しい、という子供も沢山いると思うけれど、これはやっぱり、達成感を味わえる、とか、レベルが上がっていく、とか、なにかしら「没頭できる」要素があるからだと思う。


で、将来的にこの、「テレビゲームに没頭する」経験というのは、大切になるんじゃないかと思っている。


というのも、人間はそもそも「何かに夢中になるのが好き」なんだけれども、夢中になる方法を知らない場合が多いからだ。そして歳を取っていくとなんとなく、「何かに夢中になるってかっこ悪いことだ」なんて、思ってしまうことすらある。


でも、本当は私たちは、何かに夢中になっていたい生き物だし、何か夢中になるものを見つけたい生き物なのだ。


そういう時に、(これはなかなか難しいかもしれないけれど)「ゲームに夢中になる」という経験を小さい頃にやっていれば、その時のことを身体が覚えていて、別のものにも夢中になれるんじゃないか、と思うのである。

だから極論、ゲームに夢中になった子は、受験勉強だってお茶の子さいさいでクリアできると思う。ただ、「勉強はつまらないよね」と、周りの大人が暗に示してしまっているのだ。(これは話がそれるけれど、そういう意味では僕たち大人は暗に「仕事ってつまらないし大変だよね」というオーラを出してしまっているのだ、そして子供なんて感受性豊かだから、そんな微妙な機微をきちんと微妙なまま、感じ取る。)


そういう意味でゲームは、良くできていると思う。

だって、楽しい要素ばかりが詰まっているのだから。


だから、こういうゲームをそれこそ夢中になって開発した人たち(先日他界した、任天堂の岩田さんとか)や、自分の好きな研究に没頭してノーベル賞をもらった研究者とか、ああいう人は子供の鑑になってしかるべきなんじゃないか。


そういう人達がもっと、子供の周りの見える位置にいるべきだと思いますよ。



2015年8月27日木曜日

外国人用ジャパンレールパスのややこしさ

先日、日本に来ている外国人の友達とごはんに行ってきました。


今回の旅行ではジャパンレールパス




を使っているようで、新幹線の指定席の予約を食事の後にしに、駅の窓口まで行ったのですが、


列に並んで待っている時に、このパスの説明を一通り読んでみて思ったのは、



ルールがややこしすぎ


ということです。


新幹線ののぞみ号、みずほ号には乗れない、というのは、問題ありません。


ただ、JRの区間外(第三セクター)を利用する際の説明が、三枚折のパスの内側に書かれているのですが、それが細かすぎる…。


鉄道にそれなりに詳しい人、青春18きっぷを使いこんでいる人はご理解いただけると思うのですが、


「この区間はJRじゃなくって別会社なので、料金を別途払ってね☆」


という但し書きが、日本全国の地図を小さくまとめて、更に該当箇所だけズームアップして書かれているんですよ。



例えば、三重県の伊勢鉄道、津~河原田間とか、


兵庫県の智頭急行、上郡~智頭間とかです。


全部覚えてないんですが、これらの説明がめちゃくちゃ細かい字でかかれてあります。


そして更に、東北新幹線、北陸新幹線の特例の説明(青い森鉄道は利用できないけど、八戸~青森、八戸~野辺地、野辺地~青森の、この間を途中下車しないのであれば、パスを使えますよ、というのだとか、第三セクターに移った金沢~津幡の間は、この間で途中下車しないのであればパスを使えますよ、とか)も書かれてあって。



正直、


外国人旅行客にここまで説明する意味あるのか?


とは思いました。


だってですよ、


私たちがどこかの国に旅行に行ったとして、こんなややこしい説明されても、どこにどんな駅(地名)があるかなんて知りませんし、そこを走っている鉄道がA社の管轄なのか、B社の管轄なのか、なんて部分まで、知っています?


現地で長期滞在をしている人、永住権を持っている人ならまだしも、たかが数日間、数週間の旅行のためだけに、そこまで知っている人がいたら、それはただのオタクでしょう。



こういう細かな但し書きって、必要なのかな、とは思いましたね。



もちろん、ルールはルールなので説明はしないといけないと思うんですが、ここまで詳しくなると、もはや何が例外なのか分からなくなるので、説明の仕方を変えるとか、そこに頭を使った方がいいんじゃないでしょうか。


そして、それよりも下のリンクにある、成田エクスプレスの切符の問題といったような、切実な問題に対して対処するほうが、よほど建設的だとは思いますね。








2015年8月26日水曜日

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仕事の関係でチマチマと買って読んでいるんですが、科学の世界は奥が深いです。




起業を考えている人が会社勤めをする時に学ぶべきたった一つのこと

数年前に起業がブームになった時期がある。


好景気の今はどうなのか分からないが、数年前は不況ということもあって、会社にいても先が分からないし、どうにかして自分で食っていくスキルを持っていないと…と考えていた人は多いと思う。


かくゆう自分も、起業を考えていた身だった。


結局、大学卒業時にはいったん就職をして、何で業を興すのか、ということを模索する道を選んだが(なんやかんやいって、いきなり一人で世界の荒波に放り出されるのは、スケール感も分からないし、不安しかなかった)、その時に就いた仕事は、営業職だった。


この職種を選んだのは、将来的に何かのビジネスをしていく時に、それがどんなものであれ、営業をしていくことからは逃れられないだろう、ということで選んだのだけれど(まあ、今振り返ってみれば理由は相当アバウトだし、そもそも論理的でもない)、こういう身の振り方を考えている人は、一定数いると思う。


今回は、将来的に起業を考えている人が、仮に会社で仕事をすることになったとして、常に考えておいて欲しいことを一つだけ書こうと思う。



それは、「この仕事の価値はどこにあるのか?」ということだ。



といっても、何も「この仕事でいくらぐらいのお金をもらえるのが妥当なのか」ということを考えるわけではない。


ここでの「価値」というのは、


「なぜ、人はこの商品(サービス)を買うのか?」


ということを考えることであって、


「この商品(サービス)が世の中に出回るのはなぜか?」


ということを考えることである。


そこに、「お金」の話は存在しない(それは「価格」の話であって、「価値」ではない。)



じゃあ、なんで「価値」について考える必要があるのかというと、


それはほかでもない、その商品(サービス)を買う(利用する)人がいるからであって、その商品(サービス)が何らかの問題を解決する一役を担っているからだ。



将来的に起業を考えている人は、これを常に、頭の片隅に入れて、何かの機会に考えてみて欲しい。


もっというと、別に起業なんて考えていないけれど、という人も考えてみたらいいと思うし、「普段の仕事がつまらん」と思っている人も、ぜひ考えてみて欲しい。


例えば、介護サービスというのは、身内で対応できない老人のケアを、事業として行うことだ。そこには「普段の仕事や家庭環境から、時間を取ってケアをすることができない」という問題が存在する。


オフィスビルの清掃を別会社がすることだって、「外注したほうがコストがかからない」という理由があると思う(ぱっと思っただけなので、本当はどうか分からない)。


自分がしている仕事、取り扱っている商品(サービス)、それらのユーザー。


周りがどんなものを欲しているのか、周りにはどんな課題があるのか、そしてその商品(サービス)は、課題のどんな部分をどのように解決するのか、


ということを、常日頃から考える訓練をしておくと、それがそのまま、起業のタネになる。


仕事とは結局、誰かが何かで困っていることを解決することに他ならない。そして、課題を抱えている人はその解決策に「価値」を見出す。


そういうことに頭を使っていると、自然と世の中の仕組みがどうなっているのか、もっとよい方法はないのか、ということも自ずと考えるようになるので、頭の筋肉がつく。


別に起業をしなくとも、自分の仕事を起点にしてこれらのことを考えていくと、世の中の共通項が見えてくるし、それが分かれば、自分のスキルは異業種に移っても別の形で転用できるんじゃないか、ということも考えられると思うし、そういうわけでは、転職を考えることもできる。


だから、普段の仕事を出発点にして、誰が何にどんな価値を見出すのか、ということを考え続けるようにしてほしい。



2015年8月24日月曜日

探偵気取り

先日、大阪でまた痛ましい事件が起こった。


自分はこういう類の新聞記事は読まないし、ニュースも見ないようにしているのだけれど、その理由はメディアが「探偵気取り」をしている臭いがプンプンするからだ。


容疑者の詳しい動向とか、そういうのを報じる理由ってあるのだろうか。

殺された人の死亡推定時刻がどう、とか、死因がどう、とか、そういうのは警察の中で仕事を進めるうえで把握していればよいんじゃないか。何も一般の人にまで伝えなくても…という気がする。

そして、こういうことを書くわりには、再発防止策の啓発を行っているようにも思えない。


それがメディアの仕事、と言われればそれまでだけれど、なんだか人の命をダシにしているようにしか思えなくて、自分は一切記事はそこまで深く読まないようにしている。



西武ライオンズの高橋光成投手

西武ライオンズの高橋光成投手が昨日、プロ初完封を成し遂げたらしい。


自分は西武ライオンズのファンではないのだけれど、この投手の活躍はひそかに期待している。




2年前、縁もゆかりもない群馬県で、「群馬イノベーションアワード2013」というプロジェクトの広報を、仕事でさせて頂いた。


この年には二度群馬県に足を運んだのだけれど、この年の夏の甲子園で優勝したのが他でもない、高橋光成投手を擁する群馬県の前橋育英高校だったのだ。


この高校は確か、初出場で初優勝という快挙を成し遂げたのだけれど、この一年は群馬県が自分にとって心身共にものすごく身近な場所になったのを覚えている。


だから、今西武ライオンズでプロとして生きている高橋投手は、密かに応援している。

今以上にもっと、活躍してほしい。




2015年8月23日日曜日

何を学ぶか、と同じくらいに、誰から学ぶか、ということが大事

中学生の時に担任に当たった先生が最悪で、自分はその時に教師の道をあきらめてしまった。


男性の国語教師だったけれど、現代国語も古文も、教科書やワークノートに書いてあることを殆どそのまま言うだけで、あの先生が口にした話はこれっぽっちも覚えていない。

しかも禿げているしすぐに怒鳴るし、

(スキンヘッドでカッコいい男性も沢山いることは承知ですが、中一の入学式の時に、中年で禿げでメガネをかけて少し太っている先生が教室に初めて入ってきたときに、自分の青春はぶっちゃけ終わったと思った。しかもその後、中二でも担任になり、中三でも副担で当たるという、ビンゴを経験w)


今思うと、怒鳴ることでしか生徒に力を示せない、残念な人間だっんだろうな、と思う。


しかも、気の弱そうな男子生徒にどなって、泣かせそうになっていたこともあった。



当時自分は13歳で、人生経験なんて何もなかったけれど、あの教師を見て「この人は今までの人生で何を学んできたのだろう」とは、ぶっちゃけ思った。


歳を取ると素敵な人間になる、と思っていたけれど、どうやら必ずしもそうではないらしい、ということを、幼心に悟った。


生徒からの評価も最悪で(特に女の子からは)、自分はあれを見て、「仕事していて生徒から嫌われるしかない、ってどんだけ最悪やねん」と思って、教師にはなりたくない、と思った。


まあ、中学受験をしたわけではなく、地方で不良が集まる公立の学校だったから、先生も生徒を抑えるのにいろいろと策を練ってのことだったのだろうけど(ちなみに自分の学年はおとなしい学年で、一つ上と一つ下が荒れていた)、あの時になんとなく、「誰を師にして学ぶかって大事だよな」とは思ったものだ。


自分がこれまで、塾にも行かず、基本的に独学で受験をしてきたり、新しい世界に挑戦してきたのは、そこまで教えを乞いたいと思える、師匠的な存在に出逢わなかったからだと思っている。


自分の中での師の基準の一つに、「どれだけ結果を出しているのか」というのはある。


仕事で言うと、どれだけ稼いでいるのか、というのがそうだし、


先生で言うと、どれだけの生徒を志望校に合格させたのか、とか、どれだけの生徒にその科目の面白さを伝えられたのか、という要素があると思う(これらだけが十分条件ではない)。


ただ、「結果」が大事なのは間違いない。


野球で言うと、イチローやマー君から教わる、というのが一番だと思っている。だって、試合で結果を出しているから。


自分は、自分でできないことを教えるような人間にはなりたくないし(それは実際的に「教えることはできない」ことになる、と思っている)、そんな人から教わりたくもない、と思っている。


自分の棚卸をした時に、「これだったら人に教えられる」というものを持っている人は、どれくらいいるのだろうか。そして、そうではないものを教えている人がどれくらいいるのだろうか。





2015年8月21日金曜日

情報の価値

よく、多くのことを知っている(知識が多い)ことを強みにしている人がいます(クイズ系の番組にもよく出てきますね)が、はっきりいって、こういう人達の価値は高くはないと思っています。


これらはただの「知識」であるからです。


私は、鮮度の高い知識が「情報」である、と考えています。




情報の価値って考えたことありますか?



何かをするのに、情報を多く持っているほうが有利な時があります。

誰かと何かを競い合う時(受験でも、仕事でも、だいたいのことはこれにあてはまりますね)に、必要なものってなんでしょうか。

もしくは、自分が望む結果を出す(これもものすごく漠然とした表現ですが)ために必要なものって、なんでしょうか。


受験においては、暗記することがある程度あるので、「知識」も必要なのですが、


それ以上に、(これは受験の場合ですが)「どれくらいの偏差値が必要なのか」とか「どんな単元をどの程度まで理解すればいいのか」とか、「他の受験生が強い分野と弱い分野はどこなのか」ということではないでしょうか。


こういった内容は、普遍的な「知識」よりも、使える場所が限られていますね。受験の場合、志望校の偏差値や受験生、といった風に、情報をつかさどるファクターというか、レイヤーがとても限定的です。受験の知識を料理屋の開業のためにはふつう使えませんよね(笑)



で、これからの時代は、いかに「情報」を持っているかが大事なんだと思うんですよ。


ここで「大事」だっていうのは二つあって、一つは「自分にとって必要」である、ということで、もう一つは「他人にとって必要である」、ということです。


この二つは違うんですよ。


例えば、自分が海外に移住したいとします。

国はどこでもいいですが、そういうことをしようと思った時に必要な情報といえば、物価がどのくらいなのか、とか、働き口はあるのか、とか、月にかかる費用はいくらくらいなのか、とか、そういうことです。


海外に移住したいのが自分である場合、この情報は「自分にとって価値がある」ものなんですよ、当たり前ですけど。


で、仮に同じ情報を持っていたとしても、海外移住なんて一ミリも考えたことのない人に、同じことを伝えても、当然ですがその人にとっては必要ないわけです。


なんかとても当たり前のことを書いているので、口をあんぐりされるかもしれないのですが、この当たり前のことが重要なんですよ。


仮に、海外移住したいのが自分ではなく、他人だとしましょう。

自分は海外移住の情報をいろいろと持っています。

他人はそれを欲しがっています。


そんな状況だと、その情報は「他人にとって価値があるもの」に変わってしまいます。


当たり前と言えば当たり前ですが、不思議と言えば不思議な話で、


目の前にある「何か」(この場合「情報」なので、目に見えないものなわけです)が、その受け手が異なるだけで、持っている価値は違ってしまうわけです。



この事実を理解することが、とても大事なんだと思います。


情報に限った話ではありませんが、受け手によって、目の前にあるものの価値は変わります。男の人に「バストアップ」の話をしても、そんなの耳を傾けないに決まっています(彼女が悩んでいる、とかなら違いますが、それも含めて「受け手によって見出す価値が変わる」ことなのです)。


だから、何かの話をした時に、話が合わない、興味が湧かない、っていうのは、根本的に「自分が価値を見出すものが違う」ってことに行きつくと思うんですよ。


だって、自分が知りたくもない話を延々とされても、そりゃ聞きたくないですよ(笑)



逆に、自分が持っている情報で、「これは自分使わんな~」というのがあっても、誰か手が出るほど欲している人もいる。



これってなんだか、仕事(価値交換の出発点)になりそうな気がしませんか?



ということを最近は考えています。





カフェインの魔力

昨日の夕方、久しぶりにコーヒーを飲んだ。


仕事が一段落したから、リフレッシュしたかったというのがその理由。


で、夜中に全然眠れずに大変なことになった。


我ながら、ものすごく単純な体をしているな、と思ったけれど、当面コーヒーは飲まなくてもよいかもしれない。




2015年8月20日木曜日

若さを資産に換えるコツ

昨日の記事では、若いことにかまけているといずれ大変な目に遭う、ということを書きました。


今回は、そんな若さをどうやって資産に変えていくのか(つまり、若さに反比例して何を得るのか)についてのヒントを書いていこうと思います。



若さを資産に換えるコツですが、


「若さを武器にして、人生の先輩から多くのことを学ぶ」



ことを実践してみるといいかもしれません。


昨日の記事でも書いていますが、「若い」っていうのは何にも代えられない武器です。

かつて同じような時間を過ごしていた人生の先輩にとっては、自分の昔を思い返しているようで、自ずと応援したくなるものです。

そんな若い人たちから「いろいろ教えて下さい」なんて言われたら、大抵の大人はOKします。


というのも、(実際はどうか分かりませんが)人間というのは、歳を重ねただけ積み重ねがある、と思ってしまう生き物ですし、誰か他人のために(しかも自分より若い人のために)力を発揮できるのであれば、もうそれは喜んで!なんて、心の中では思っているに違いありません。


人間は多かれ少なかれ、自己承認欲求を持って生きています。


なので、若い時分には相手のその部分を利用して、いろいろと学ばせてもらえばいいと思うのです。


職場であれば、仕事をバリバリにこなせるやり手の営業マンやコンサルタントから、仕事のコツみたいなものを教えてもらうようにする。もしくは、その人たちの若い時分の失敗談を聞いて、自分は二の足を踏まないように戒める。


気を付けなければいけないことが二つあります。


一つは、現代は時代の変化が激しくなっているので、必ずしも先代の成功法則や通念が通用するわけではない、ということ。
(そういう意味では、人生の先輩も、後輩から謙虚に学ぶ姿勢を失ってはいけないと思います。時代に対する感覚の鋭さは、若いほうが高いのは間違いありません。)

もう一つは、人生の先輩が必ずしも自分よりすごい人ではない、ということ。

いわゆる「歳だけ喰ってしまったパターン」なのですが、こういう人と関わってしまうと、あまり得るものがない、という場合も起こりえます(その人が謙虚な人で、自分の失敗を教えてくれるのであればいいのですが、なんだか変に勘違いをして、自分のことを見誤っているのであれば、ちょっとアブナイですね)。


ただ、後者についてはある程度場数をこなさないと、どういう人からは学びが多く、そうではないのか、ということも分かりませんし、逆に、自分と相性が合わなくても「そういう考え方は自分には合わないな」ということが分かるだけでも学びはあると思うので、あまり考えすぎずに、相手からいろんなことを学びとってやろう、という気持ちを持つことが大切だと思います。


何度でもいいますが、「若い」ってことは一つのゆるぎない特権なので、それは思う存分に使えばいいです。

そして、特に人生の先輩から学びを得た際は、それらの気づきから、自分が何を考えて、どのように行動していくのか、ということを徹底的に考えて実践していく必要があります。


そうすることによって、人生の先輩が踏んできた徹を同じように踏むリスクも減りますし、自分が目指す場所にはやく到達できる可能性も高まります。


自分が若いことに甘えずに、かつ奢らずに、多くの学びを自分の頭に吸収して資産化して下さい。





2015年8月19日水曜日

若いことにあぐらをかいていると大変な目に

自分も20代半ばまっただ中を生きていて思うのですが、若いって素晴らしいと思います。


仕事(本業ではない)の関係で、10代後半~20代前半の(主に)学生と関わる時があるのですが、「若いっていいな」と、この歳でも思います。


だって、なによりも時間がたっぷりある。


そして体力と気力も備わっている。


頭も柔軟。


自分も学生の時に、人生の先輩方から同じようなことを言われてうらやましがられたり、ちやほやされていましたが、徐々に歳を重ねると、その人たちの気持ちはわからなくもありません。



ただ、そういう立場にあるからこそ、若い人は「若いこと」にあぐらをかいてほしくない、とも思います。


時間というのは残酷で、驚くほどはやく過ぎ去ってしまいます。


自分も大学に入学してから、8回も満開の桜を見てきました。8回です。


そしてこの間に自分の中に何か積み上げることができたのか、といえば首を縦に振ることは難しい。世の中にはすごい同世代がたくさんいるので、自分なんか大したことはない、と思いつつも、もう少し何か頑張っておいてもよかったんじゃないかな、とは最近思っています。


なので、若さというのは自然と失われていくものだ、ということを自覚したうえで、「その代わりに何を得るのか」ということを、学生の間くらいから真剣に考えておいた方がいいかもしれませんね。


若い時の武器の一つは間違いなく体力と気力ですが、それだけを武器にしてしまうと、必ずどこかで失敗します。体力なんて自然と衰えていきますし、20代半ばにもなると、数日徹夜なんて無理です。


自分は世間の職場(業務環境)について良く知りませんが、若いうちから長時間労働をすることは、やめた方がいいのではないかと思います。

それが法的にどうだ、とか給料がどうだ、という話ではありません。


そこで奪われてしまう時間が、あまりにも大きすぎるのです。


ある程度時間を割くことで、自分の能力が上がる、新しいスキルが身に付く、というのであれば、その選択肢はありですが、そうでもないようなことに、若いうちに無意味に時間を過ごすのは避けた方がいいのではないでしょうか。


時間だけが経ったときに何も残らず歳だけを喰ってしまっては、その後の人生でできること、選択できることが違い過ぎてしまいます。転職だってそうですし、仕事の選択肢、住まいの選択肢等、自分が選べる範囲が異なってきてしまう。


別に他人の人生なんで、それにちゃちゃを入れるわけではないのですが、もし今の自分が、比較的若いのに不本意な時間の使い方をしているのであれば、それは考え直さないといけないし、使い方も変えていかなければならないでしょう。


自分もここ一年は、自分が歳だけを喰った時のことに対する恐怖感が一段と強くなっています。そのために自ら選択して、自分を高めて強めていくことにある程度時間を割くようになりました。


自分の人生は自分のもので、誰も助けてくれるわけではない。他人は所詮他人で、最終的に全ての責任は自分に返ってくる。


若いうちはそんなことは考えもしませんが、そういうことをもう少し意識して、手元にある時間を大切に使っていかなければいけないのではないでしょうか。




2015年8月18日火曜日

チャンスの神様との付き合い方



チャンスの神様には前髪しかない


という言葉がありますが、これはその通りだと思っています。


人生はワンチャンスしかないので、そのチャンスに対してどれだけ真剣に向き合えるか、どれだけの結果を残せるのか、ということを考えて取り組む必要が、人生では何度か出てきます。


何度もチャンスが出てくる、というのは正しくはあるのですが、自分のコンディション、相手のコンディション、周囲の環境、時間の経過、という要素をひっくるめて考えると、「同じチャンス」はまた一つないと言えます。


こういうチャンスとの向き合い方に関して、自分が意識していることを今回はまとめようと思います。



①「一回目のチャンスは見逃す」

これは、かつてのプロ棋士である大山康晴が残した言葉です。


将棋をしていて、有利になりそうな手順が出てきても、最初は見逃す、という考え方です。


「自ら動かずにチャンスをうかがう」という、味わい深い哲学です。

勇み足で飛び込んではいけませんよ、という戒めなのかもしれません。



②「人生の90%は逃げていい」


これはチャンスに対する考え方というよりは、もっと広い意味での人生哲学なのですが、同じタイトルの本もありますね。


自分もいうて、逃げて、逃げて、逃げて生きてきた身なので、この言葉には同意します。

ただ大事なのは、「90%は逃げていい」ってどういうことなのか、ということをきちんと理解するところにあります。


これってつまり、「人生の10%は向き合って勝負しなければならない」ということですよね。


なんだかんだ、人生には向き合わないといけないことが時々出てきます。それがなんなのかは人それぞれ違いますが、そこで逃げてはいけない。そこで逃げると、人生負け続けになる。


だから、90%は逃げていいんだけれど、残りの10%で死に物狂いになって結果を残す、次につなげるようにする、という風に取り組まないといけないんじゃないか、と思っています。


③「結果を意識しない」


勝負強い人、ここぞというところで結果を残す人はこぞって、「結果を意識しない」というクセがあると思っています。


スポーツ選手だと(スポーツ選手に限らないかもしれませんが)、記録がかかった試合で力まずにプレーをする。


勝ち負けにこだわらず、自分が持てるだけのものを出し切る。そのためにありったけの時間を投入する。


自分が持てるものを出し切ったら自ずと結果がついてくるし、その結果は相手が評価してくれるものだ、という考え方は、自分も見習わなければと思っています。



ただ、これらのことを身体で覚えて結果に結びつけるためには、ある程度の場数をこなすこと、そしてその中で見極める力をつけることが必要になってくるのも事実です。






2015年8月17日月曜日

Gmailの通知確認拡張機能を使ってみたら、大当たりだった件

数日前に導入したGoogle Chromeの拡張機能、



ですが、使い勝手など大当たりでした。

この拡張機能を使うことで、以下のようなことが可能になりました。

・Chromeを開いている状態(最小化も可)で、新着のメールが即時確認できる(スクリーンの右下にポップアップ表示される)
(普段は仕事用のソフトを使っていて、パソコンの画面サイズのこともあり、ブラウザとソフトを横並びに表示することができない)

・ポップアップにはメールの件名、差出人、最初の数文字が記載されているので、どのような内容のメールかもだいたい想像がつく

・ポップアップ画面で削除、既読をつけることができる


これで仕事の効率がぐっと上がりました。

・メールボックスを開く回数が減った
・すぐに確認をする必要があるメールを、受信直後に確認できるようになった


特に今までは、メールが来ていないかどうかが不安で、一日に何度もメールボックスを開いていましたが、時間の無駄だし集中力が切れるし、で、よいものではありませんでした。

この拡張機能を導入後、セールス関連のメールはポップアップ画面から速攻で削除できるようになったので、集中力も散りづらくなりました。


なんで今まで、この機能を調べなかったんだろうと後悔しています。



2015年8月16日日曜日

言葉を使わなくなった人間は、ただのサル

仕事柄、ほぼ毎日英語と日本語に(文章で)接しているのですが、


言葉を使うと、頭が働きますね。


文章でも、話し言葉でもいいのでしょうが、


言葉で何を伝えるのか、


相手が想像しているものと自分が想像しているものの差は何か、
(他でもない、コミュニケーションロスにつながる)


相手が伝えようとしているものは何なのか、


何かを表現する時にはほとんど必ず、言葉を使うので、


人間は言葉を使うことから逃れられないのかな、と思います。


そして、言葉が伝わらないと、自分の力不足だったり、いろんなことにも残酷なほどに気付くことができます。


言葉を使うっていうのは、例えば友達と会って話をしたり、仕事をしていたり、本を読んだり、メールを書いたり、ということをしていたら、基本的には逃れられないので、力が落ちることはないと思うのですが、


誰とも人に会わず、本も読まず、言葉を使わない状態に陥ってしまうと、恐らく人間の脳はものすごく速く劣化してしまうのではないかと思います。


自分ももう少し、話す力を鍛えないと、ただのサルになってしまうのではないかと思う今日この頃です。







2015年8月15日土曜日

夕涼み

ここ数日で、いよいよ季節が秋に移りつつあるのかな、ということを感じるようになった。


特に朝晩の涼しさが、夏の終わりを感じさせる。


自分としては、涼しい方が集中力が高まるので、この数か月は過ごしやすい季節なのですが、

そんなことを言っているうちに大嫌いな冬になりそうで、本当に憂鬱です。


特に今年は、時間の流れが速く感じるようになっています。

自分も歳を取ったのでしょうか。





2015年8月14日金曜日

Gmailの受信通知を確認できるChrome拡張機能を導入してみた

仕事では普段、独自ドメインのプロバイダーメールをGmailに転送して確認しているのですが、メールのやりとりがだんだんと増えてきています。


これまでは問題なかったのですが、最近は仕事の打診のメールが来て、早く返信したほうがよい内容のものが増えてきています。


そして、仕事中は基本的にメールを見ないようにしている(仕事の効率が落ちるため)のですが、それだと本末転倒になってしまうので、何か良い方法がないかを調べてみました。


環境的に
・Windowsを使っている
・メールボックスのブラウザ(タブ)を通常閉じている

状態で、Gmailに届いたメールがリアルタイムで表示できる方法があれば、と思っていたのですが、


ありました。


こちらのリンクに詳しく書いてあります。


Chromeの拡張機能は便利ですが、この機能は自分にとって特に必要なものでした。


後は、パソコンを閉じている時にもメール受信が分かるように、スマホ(できればSIMフリーのiPhone)を用意してみようかとも思っています(今使っているiPadは重くて大きいので、すぐに確認できる場所におけません)。





画質が悪いですが、これが拡張機能導入後のタブ右上部。

メールを受信した時は、パソコンの右下に通知が表示されます。


それにしても、メールとの付き合い方は難しいものですね。





2015年8月13日木曜日

個人事業主にお盆休みは関係ありません

今年のお盆休みも、仕事を抱えたまま突入しました。


世間と時間軸をずらして生きていけるのはストレスフリーでいいのですが、友人と予定を合わすのが難しい時もあって、なかなかうまくいきません。


自分に価値を見出してもらい、仕事を振っていただけることはありがたいことなので、次の休みはいつにして、何をしようか、なんてことを少し考えながら、毎日を過ごしていくことになりそうです。


2015年8月12日水曜日

人を動かす力

ここ半年ぐらいで、


人は何に心を動かされるのだろうか?


ということに興味を持ち出して、あれこれ考えるようになった。


心を動かす、というのには、大きく分けて二種類あると思う。


一つは、良い方向に心を動かす、例えば、誰かに憧れる、夢や目標を持って何かに取り組むきっかけを与える、というもの。

もう一つは、悪い方向に心を動かす、例えば何かに執着することで、心が落ち着かない状態になってしまう、というもの。


私たちは、スティーブジョブズのような「ストーリー」に心を動かされて憧れや夢を抱く一方で、日々の生活、将来、人間関係に対して神経をすり減らし、精神的に大きなダメージを食らうこともある。


自分が今まで考えてきたのはどちらかといえば後者、すなわち「何かに対する執着心や欲」だったのだけれど、これからはもっと、「ストーリー」など、良い方向に人の心を動かすことに対しても、考えていきたいとは思う。


時々思うのだが、自分は誰かの憧れになっているのだろうか。


別に、誰に憧れてもわらなくても、自分は自分で好きなことをやって生きていくつもりなので、それはそれでいいのだけれど、その一方で、誰かがこんな自分の生き方などに憧れを持って、その人の何かを良い方向に変えるきっかけになっているのであれば、それはそれで嬉しいことだな、とは思う。


でもまあ、以前ほど、他人を動かそうという想いは多くはないし、特に今は、自分のことにフォーカスする時期なのだとは思う。


究極的に、誰かの憧れになったからといって、その人と自分は関係ないし、自分が誰かを変えたとは思っていないし、おそらくそういうことに執着しなくなったのだろう。


反対に、自分が誰かに対して憧れを抱くことがなくなったというか、「自分は自分、他人は他人」と思えるようになったのが、その理由でもあると思う。


まあそれでも、人の心の変化のきっかけ、というか、人に対する興味関心は、これからも持ちながら生きていくのだろう。



2015年8月11日火曜日

エネルギーの分散

決まっていない予定がある場合や、使う身体部分や頭の部分が違うことを沢山行う場合、

どうも注意力散漫になってしまうというか、生産性が落ちてしまう気がします。


以前友人が言っていたのは「時間がないんじゃなくて、振り向けるエネルギーが足りない」ということなのですが、


最近はこれが分かるようになってきました。

仕事が沢山ある時はそれに集中したいので、できるだけ人との関わりを絶つことが多いですし、

何より、仮に会ったとしても、頭の中は別のことを考えていて、集中できないっていうことなんでしょうね。(基本的にそういうことをすると失礼にあたるので、自分はどうしてもエネルギーが向かない場合は、人と会うこともお断りしています。逆に人と会う時は、気を高めるといいますか、それなりの準備をしていきます)


最近は、エネルギー分散をすると、良い自分を出せなくなることに気付いたので(というより、自分の興味があることとそうでないことに対する温度差が激しくなった)、そのあたりは上手くまとめて、できるだけ自分がエネルギーを投入して、成果に結び付けられることをしていこうと思うのでした。



2015年8月10日月曜日

価値ですら、一種の共同幻想である

いつも、そこそこいい値段のする美容室(メンズ専用サロン)に行って、髪を整えてもらっているのですが、


1000円理髪店に行かれている人にとっては、「髪切るのにそんなお金払えない!」と思われると思っています。

しかも、大学時代にお世話になったところで、引っ越した後も使い続けているという(笑)


なので、髪切りに行くだけで片道2時間くらいかけていて、交通費もかかるわけで、結構なお金を飛ばしています。


でも逆に、私にとっては「1000円で切るなんて信じられない!」という感想に至ります。

何度かそういうところを使ったことがあるんですが、自分は納得いかなかったんですね。

今お世話になっているところは、サービスも付加価値も満足いくものなので、そういうのもひっくるめて、お金を払う価値があるかどうかを判断しているわけですが、


こう考えていくと、何かに見出す「価値」ですらも、ある種の共同幻想でしかないと思ってしまいます。


貨幣も国家も共同幻想だと、私は思っていますが、

最近考えている「価値」ですら、共同幻想であると。


というのも、自分は1000円カットに価値は見いだせないけれど、1000円カットを使っている方には、髪を切るためだけにほぼ半日を使うことになんて、価値を見いだせないからです。


あと私は、鉄道や飛行機に乗って移動をするのが好きなのですが、


車やバイクを運転することには、これっぽっちの価値を見いだせない人間です。


逆に、そういうことが好きな人は、私のような属性の人間が考えていることには価値を見いだせないでしょう。


でも、それっていたって普通のことなので、別に気にしなくてもいいんです。


そしてここで大事なのは、「何か似ていることに価値を見出し合う人がいる」ということです。


1000円カットに価値を見出さない人ばかりだと、1000円カットは成り立ちません。

自分は風俗などに関心がなく、なんであんなものがあるんだろうとは思いますが、実際に必要としている人が多くいるので、存在しているわけです。


LCCができても、新幹線での移動の方が、大手の飛行機での移動の方が良い、という人もいるでしょう。


大事なのは、「何かに価値を見出し合う人がいれば、その中で交換が起こること」だということです。


それが商いであったり経済の原点です。


翻って、「自分は何に価値を見出すのか」「自分はどんな価値を提供できるのか」ということから考えるのが大事。


もっというと、仕事の「相場」なんて存在せず、「それっぽいもの」はありますけど、お互いに価値を見出す内容を交換すれば、それで取引が成立するのです。だから、クラウドソーシングで値崩れが起こることもある一方で、付加価値の高い仕事をしている人は買い叩きに合わない(合いづらい)。


結局、仕事であったり経済であったり、というのは、似たような価値観を持った人との交換作業であることを認識する必要があるのではないでしょうか。


そんなことすら考えずに仕事をしていると思うと…ぞっとしますね。




2015年8月8日土曜日

本質的な価値の話

普段購読している無料メールマガジンに目を通していると、まさに自分が疑問に思って考えていることに対する考察が書かれていたので、今回はその内容を紹介(転載)しようと思います。



(以下転載)

今の世界は不自然にデザインされたものであり、
それゆえの歪みが経済に生じています。

例えば社会が100人の村であれば、100人
それぞれに明確な役割があって、はっきりとした
認識として、

「私たちは協力し合って生きている
 (お互いがお互いに必要としている)」

という意識を持っているはずです。

しかし人数が多くなると、自分の役割も、
他人が担ってくれていることも、社会が協力を
前提として存在していることも、全てが薄まり、
意識の外に置かれてしまいます。

「サラリーマンとして働く」ということが、
「社会の役に立つため」ではなく、
「自分の給料をもらうため」になる。

本来なら、社会の役に立つということこそが、
自分の価値証明なのに、それがいつの間にか、
給料の多さが価値証明となっていく。

100人の村なら「役立たず」は村八分にされる
ので、役に立つかどうかが、まず一番前提にある
自分自身の安全保障なわけですが、僕らはもう
そんなことを意識することもありません。

「生きてて当たり前」

と思ってしまっている。

なんなら、

「食わせてもらって当たり前」
「生活保護してもらって当たり前」

と思っている。

面白いもので、ここまで「個人」と「社会」の
繋がりが見えにくくなってくると、

・社会貢献



・自己利益の確保

が、一致しなくなってきます。

つまり、

「会社でろくに働かなくても、
 雇われているのだから給料をもらって当然」

となるわけです。

あるいは、

「一生懸命働いてるけど業績は悪い。
 でも、残業もしてるから残業代が欲しい」

となっている。

本来、自然なあり方を考えるなら、

自分が生み出したものの価値 = 対価
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
となるはずです。

農業とかはまさにそうですよね。

自分が育てた作物の質と量が給料に比例する。

これが「自然なこと」です。

しかし今の世界は資本主義というよりは、
金融至上主義のようなものなので、如何にして
利益を生むかが優先されます。

ここで言う「利益」とは、会計上の利益であって、
実質利益ではありません。

例えば「銀行」は、お金を増やしたり刷ったり
できるわけですが、だからと言ってそれが現実的に
利益をもたらしてはいません。

お金というものがそもそもとして、不自然なもの
なのです。

僕らは想像上の利益を大きくしたり、会計上の利益を
大きくすることではなく、実質的な利益を増やすことに
集中する必要があります。

それはつまり、

「付加価値」
~~~~~~~~~~~
というやつです。

農業の例で言えば、

・高品質のものを
・できる限り多く作る

ということが付加価値になるかもしれないし、

・特別な種類のものを
・ブランドにする

ということが付加価値になるかもしれません。

「付加価値を生む」ということは、言って見れば、
「自分のポジションを確立する」ということです。

基本的にはもう、人口も増えすぎていて、
必要のない人間の方が多かったりするわけです。

そして今後20年足らずで、
「今ある職業の50%は機械化される」とまで
言われているわけです。

人口が多いわ、仕事がないわで、僕らの価値は
どんどん下がっていく一方です。

日本の破綻などを心配する人も多いですが、
実は一番心配すべきことは、

「自分自身の価値がなくなること」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
です。

例えば日本が破綻したとして、日本人が貧乏に
なったとして、さて、その時にあなたに仕事は
ありますか?

「日本人を雇う理由」なんてないわけです。

特別な技術があるとか、
能力が高いとか、
何か付加価値がある人材なら引く手数多でしょう。

しかし、そうでないなら、仕事すらないのです。

日本円仮に紙くずになったって、付加価値のある
人間はすぐに新しい仕事が見つかり、ドルでも
ユーロでも稼ぐことができます。

どこかに仕事はありますから。

問題なのは、あなた自身に仕事があるかどうか?です。

一番きついのは老人と老人を抱えた家族です。

老人は貯金がゼロになって、それを抱える家族は
だいぶしんどい思いをする。

家族が付加価値のある優秀な人間だったらいいですが、
そうでなければ、さらにきつい。

日本の破綻というのは「貯金がなくなる」という
ことではなく、「日本人の価値がなくなる」という
もっと深刻な問題なのです。

もっと言えば、

あなたに価値なんてない
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ということ。

僕らは今はまだ、生きているだけで消費者です。

生活保護を貰えば、買い物ができます。

つまり、まだ価値がある。

でも、貯金もゼロ、所持金もゼロ、保護もゼロ、なら?

生きているだけで負債ですよ(苦笑)

残念なことです。

「自分自身の価値を高めること」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
を、今のうちに必死になって取り組まないと、
かなりきついことになると思います。



(以上転載終わり)



ちょうど昨日、「給料=自分の仕事の価値、なんだろうか?自営業なら分からなくもないが、会社員は違うことないか?お金と価値は等価ではないけど、会社員の方が結びつきにくいし、それ故勘違いしてしまう人が多そう」というようなことをもやもやと考えていたのですが、


それに対する思考プロセスと答えは、どうやらこの文章にあるようです。


結局、価値の提供、価値の交換なんでしょうね。

自分が何に価値を見出して、相手が何に価値を見出してくれるのか、って話になるのです。

そこに媒介するのがお金(貨幣)であって、別に貨幣以外のものが媒介してもいい。(この辺りは前にも何回かブログで書いているのですが、あまり反応がなかったので、自分の伝え方・書き方が下手なのか、そこまで考えている人が読者にいないかのどちらかなのでしょう。)


そうすると、自分が提供した価値の結果としてお金が付いてきたのであれば、それは堂々と「年収」という形で提示することは可能なのだと思います。

だけど、それだけが交換方法ではありませんから、

お金の代わりに住処や食事を提供してもらったのであれば、それも堂々とした「価値交換」になるわけです。


そして、「価値」なんて、一人ひとり見出すものが異なりますし、同じものごとに対しても、交換のために提示する金額やほかのものの額や量、数だって異なるわけです。


その中で交渉をして、自分が納得する内容で価値交換を行う。


そういうことが本質だと気付ければ、見える世界、考える内容もまた違ってくると思います。


だから、自分の価値を高める、ということもそうですし、

自分は何に価値を見出すのか?

相手は何に価値を見出すのか?

というところにアンテナを張って生きていかないとだめだと思っています。

そしてそれは、訓練でしか身に着かないものでしょう。